
今回も「ディズニー総チェック」進めていきましょう!
ということで紹介するのは、今回も名作「アラジン」です。

今作のポイント
- 実は「美女と野獣」からテーマを引き継いでいると言える。
- ここまで失敗してきた題材に挑戦。
目次
「アラジン」について
基本データ
基本データ
- 公開 1992年
- 監督 ジョン・マスカー/ロン・クレメンツ
- 脚本 ジョン・マスカー/ロン・クレメンツ/テッド・エリオット/テリー・ロッシオ
- 原作『千夜一夜物語』『アラジンと魔法のランプ』
- 声の出演 スコット・ウェインガー/リンダ・ラーキン ほか
あらすじ
魔法の世界で、機知に富む庶民のアラジンが、利発で自立心の強いジャスミンと力を合わせて、邪悪な魔法使いジャファーと戦い、王位を狙うジャファーの野望を打ち砕く。
3つの願いごとを叶えられる10000歳の陽気なジーニーの助けを借りて、アラジンは自分自身を信じることを学ぶ。
ディズニープラスより引用
「美女と野獣」との共通点/過去作のリベンジ要素

「本当の自分」「偽りの自分」
今作では、2つの大きなテーマが描かれている。
1つ目のテーマは主人公アラジンが、王女ジャスミンと結ばれ「王」になるという、いわゆる「男版シンデレラストーリ・サクセスストーリー」「プリンスもの」と呼べる作劇である点。
ただ、この点は言いたいことが多いので後述したいと思う。
2つ目のテーマとしてアラジンの、苦悩が実は「見た目より”中身”」という要素を持っているという点だ。
今回は、先にこちらのテーマを深堀りしていきたい。
というのも、この「見た目より”中身”」という点を突き詰めると、実は前作にあたる「美女と野獣」と通ずるテーマを描いているといえるのだ。
今作の主人公アラジンは身分が低く、「アグラバー」で恐らく毎日盗みをして、その日の食事にありつくという生活をしている。
そして「ここではないどこか」
つまり、「王宮」での生活を夢見ていることが描かれる。
ここで彼は「明確に物質的欲求」を求めていることも明らかになる。
かたやヒロインのジャスミンを見てみると、彼女はすでに「物質的欲求」を満たしている。
だけど、現状の生活に不満を持ち、「王宮の外」の世界に思いを馳せているのだ。
ここで彼女は「明確に心理的欲求」に基づき、生きたいと願っている。

以前の「総チェック記事」にて、「眠れる森の美女」「リトル・マーメイド」での評論をした際にも触れたが、ディズニー作品で「恋に落ちる条件」に「自分の欲するものを、相手に見出す」という点がある。
この作品でアラジンとジャスミンが惹かれ合うのは、ここまでの「ディズニー作品」の系譜を見てくると必然とも言える。
ただしこの作品、そこから、一捻りがある。
本来ならば「そのままでいい」ハズのアラジンが、ジャスミンの嫌いな系統の人間に変身してしまうという点だ。
つまりココで一旦整理しておくと、元々ジャスミンは、アラジンの身分・身なりなど関係なく、彼の内面に惹かれていた。
すでに「外見よりも”中身”が大切」ということを彼女は、重々理解しているのだ。
今作で実はこの「外見よりも”中身”が大切だ」ということを学ぶのは、アラジンなのだ。
つまるところ、この構図は前作「美女と野獣」で、本来「野獣=王子」に課されるべき「学び」を再び、アラジンに与えていると言っても過言ではない。
彼は、とはいえ「ドブネズミ」と呼ばれる低い身分であることを恥じて、ジーニーに「3つのお願い」のひとつを使い、「アリ・アバブワ」という架空の王に変身しジャスミンの前に姿を表す。
もちろんアグラバーの法律で「王女は王子と結婚する」という取り決めがある以上、王子になるということは不可欠だが、それはジャスミンの意思には反している法律で忌むべきものだ。
そのため、最初のアリ王子としてのアプローチで、ジャスミンに完全に嫌われてしまう。
だがその夜、誰もが心惹かれる美しい「魔法の絨毯」での飛翔、画面の構成もさることながら、楽曲 「A Whole New World」の美しいメロディも含めて、「アラジン」という作品を象徴するシーンとなっている。
(楽曲も「ディズニー名曲」の中でもTOPに含まれるだろう)
この流れになるのに重要なのは、アラジンがジャスミンに手を差し伸べて「僕を信じろ」というセリフだ。
これが鍵となり、彼が市場で助けてくれた人物なのだとジャスミンが気づき、2人は世界を見て回る。
ここでジャスミンがアラジンの正体を聞こうとするが、ここでもアラジンは「真実より、嘘」を選ぶ。
つまり、彼の中では、「真実よりも、偽りの姿」であることが、ジャスミンと結ばれる条件だと考えているのだ。
この時のアラジンの心情を少し推し量ると、彼は「王子」でないと、彼女に嫌われるとは思っていない。
ジャスミンを信じきれていない、というワケではない。
アラジンは自分への、「本当の自分」への信頼がないのだ。
そのため、彼は「中身よりも、王であるという”外見”」が必要だと考えているのだ。
だが、そんな嘘を続けていいのか?
彼自身の悩みが、今作の後半で描かれるのだ。
そしてこの葛藤こそが、本当に大切なのは「王子という外見」か「真実のアラジンの姿」どちらが大切なのかを悩むことに繋がるのだ。
つまりアラジンの悩みは、実は前作「美女と野獣」でも描かれた、「見た目より中身」が大切というテーマを、形を変えて再度描きなおしているとも言えるのだ。
深堀りポイント
ちなみに今作の敵であるジャファーは、アラジンのある意味で真反対の存在だ。
他人を外見や地位のみで判断し、自身も権力欲に溺れ、力を欲する。
メンツや外見にこだわる存在として描かれているのだ。
彼はジーニーへの願い事を「アグラバーの支配者の地位」「最強の魔法使い」「ジーニーにしてくれ」と、全て「力」関係の願いをしていることからも、彼の「力への執着」が見えてくる。
「王様の剣」「コルドロン」のリベンジ要素
今作はそして、重要なテーマがもう一つ描かれている。
それは「プリンスもの」というジャンルに挑戦しているということだ。
今作はアラジンが、低い身分から「王」を目指す物語といえる。
この構図は、かつてディズニーが手酷いしくじりをした「王様の剣」と「コルドロン」に通ずるものがある。
ではこの過去2作と違い、なぜ「アラジン」が成功したのかを考えていこう。
と言っても結論はシンプルだ、それはアラジンの性格が前向きであるという、これに尽きる。
「王様の剣」
主人公ワートは、圧倒的に向上心もなく、マイナス思考。
最終的に王になるものの、泣き言を言って物語が終了する。
どうしたって感動もしなければ、「やめちまえ」と画面に向かって言いたくなるほど、気持ちよくない終わり方をする。
「コルドロン」
主人公のターランは、「勇者」になりたいという夢はあるが、そのために行動をするわけでもない。
最強の「剣」を手に入れて、調子にのり、それが無くなると、途端に弱気になる。
そして、最後に倒すべきヴィランも、自滅・・・。
これでいいのか? と思わざるを得ない締めくくりになっている。
とにかく上記2作品は、主人公が全く「応援しがいのない男」だという欠点を持っていた。

この上記作品に対してアラジンは「応援しがいのある男」だ。
アブーや魔法の絨毯、ジーニーとの友情。
前述した「本当の自分を見せるべきか?」悩む姿など、非常に人間味あふれている。
個人的には「2つ願い」を使ったあと、一度は私利私欲の為に「ジーニーを自由にする」という約束を反故にするなど、その辺りの迷いも非常に人間らしいと感じた。
つまり、シンプルに我々の感情移入しやすい人物造形がされているのだ。

とにかく、重要なのは、今作の成功で、ある意味でディズニーにとってここまで鬼門であった「プリンスもの」「男版サクセスストーリー」をついに克服したとも言える。
ただ「アラジン」公開まで、55年間で、30作品作られた「長編ディズニーアニメーション」
その中で「名作・傑作」と呼ばれるのは、やはり「プリンセスもの」であることも見逃せない。
つまり、この時点で「ディズニー=プリンセスもの」という構図が完全に出来上がってしまっているということだ。
「アラジン」以降このような「プリンスもの」「男版サクセスストーリー」が少ないのは、ある意味で仕方の無いことなのかも知れない。

「囚われの身」である、アラジン、ジャスミン、ジーニー
今作のメインキャラについても深堀りしておこう。
アラジン、ジャスミン、ジーニーには共通点がある、それは「囚われの身」であると感じている点だ。
(ジーニーに関しては、文字通りの「囚われの身」である)
彼らは3人は「現状に不満」があり、「自由」を欲しているともいえる。
アラジンは「困窮に支配されない環境」
ジャスミンは「がんじがらめの現状への不満」
ジーニーは「ランプからの脱出」
今作は3人のメインキャラクターの目的が「自由を求める」という点で一致しているのだ。
そんな彼らの思いと対立するのがジャファーという存在だ。
彼はアラジン達を「支配」しようとする。
このように今作は、対立軸もキチンと明確になっており、今作で彼が「敵対者」として出てくる理由付けがキチンとなされている。
(ちなみに実写リメイクでは、明確にジャファーはアラジンのダークサイドの存在で、元々はアラジンと同じく貧しい立場だった、という境遇面の深堀りもされた)
その辺りも、丁寧な作劇がなされていると言える。
物語開始時の演出に注目/ジーニーと手塚治虫
今作の冒頭、ある商人(=語り部)が「ふしぎなランプ」の話をするシーンがある。
これは、この作品が「この語り部の語る、物語である」ということが明確に描かれる。
これはこのアラジンの原典「アラビアンナイト=千夜一夜物語」へのリスペクトだ。
千夜一夜物語とは?
ササン朝ペルシャ期のシャフリヤール王が、重度の女性不信になるところから物語が始まる。
そして、しばらく経ちペルシャでは、国中の女性が一晩ずつ王に差し出され、浮気されたくない王が、一夜が終わるごとに差し出された女性を殺すという、なんとも酷い悪習が行われていた。
そんな繰り返される悪習に頭を抱える大臣。
そんな中、大臣の娘である姉妹は、王の元に赴くことになる。
「明日には死ぬかも知れない」という極限状態の中、姉妹は王に「物語を語る」ことにする。
毎晩「面白い物語」「ワクワクする物語」を語り続けることで、次の日も王に「話を聞きたい」と思わせて、生き残ろうとするのだ。
そんな決死の綱渡りをするのが「千夜一夜物語」のメインストーリーだ。
今作の原作になった「魔法のランプ」の話も、そんな姉妹が生き残るためにした話のひとつなのだ。
有名所では「シンドバット」もそのひとつに入る。
つまり、元々原作は「物語内で語られる、物語」なのだ。
だからこそ今作が「商人が語る、物語である」というのは、「千夜一夜物語」への明確なリスペクトだとも言えるのだ。
逆にここまで徹底するならば、物語を締めくくるのは「ジーニー」では不十分とも言える。
この作りで行くならば、開始・締めくくりは、同一人物でなければならないのだ。
ただ、この不十分さを「実写版」は完璧に修正しているので、ぜひこの点にも注目してもらえると面白いかも知れない。

そして今作を語る上で欠かせないジーニーの存在感。
特に個人的には彼の自己紹介シーンで彼の繰り出す「時代錯誤ギャグ」に注目したい。
このシーンでは「時代設定」「世界観」を全て無視したり、別の「ディズニー作品キャラ」を出すという、ダイナミックな演出が肝で、ジーニーの型破り感が出ている良いシーンだ。
(この時代を先読みしてるかのようなセンスは、「王様の剣」のマーリンにも通ずる点もある)
個人的にこのダイナミックな、ある意味で「破綻」を恐れない演出は「手塚治虫」の感覚に近いと感じた。
例えば「火の鳥」で鎌倉時代の「源頼朝」が電話をする、という有名なシーンがある。
このように、「手塚作品」では、その時代ではありえない「価値観」を持ち出したり、「他作品」のキャラクターが登場するなどよくあるのだ。
ある意味で「漫画とは自由だ」と言わんばかりのダイナミックさが「手塚治虫」の魅力でもあるが、ジーニーはそれに近い感覚を秘めたキャラクターだと言える。
ジーニーの演出に手塚治虫作品が関わっているという、証拠はない。
だが、もしもジーニーのダイナミックさに「手塚作品」が少しばかりでも影響をしていたら・・・。
そう妄想すると、さらにこのシーンが楽しくなってしまう。
今作品をふりかえって
ざっくり一言解説!!
非常に楽しい映画作品!!
実は「美女と野獣」と通ずるテーマを持った作品と言える
まとめ
ということで、今作は「美女と野獣」でも語られる「中身が大切」という点にも通ずるテーマが、実は描かれている。
「美女と野獣」の次に「アラジン」が公開されたことにも、意味があるのではないだろうか?
アラジンが「外見を取り繕い、本当の自分を信じられない」という点に、「美女と野獣」がうまく伝えきれなかった点を託しているようにも見えた。
そう考えると、この公開順は非常に巧みとさえ見えてくる。
そしてもう一つ重要な点に、これまで失敗し続けた「プリンスもの」「男性版サクセスストーリー・シンデレラストーリー」を初めて完璧な形で制作できた点だ。
ただ、この「アラジン」制作時点でディズニーは、すでに「プリンセスもの」が高く評価されていることもあり、その後もコンスタントに制作されるジャンルにはならなかった。
むしろ時代としては、あきらかに「プリンセスもの」を求める機運も高まっていたといたのだ。

ただ、このように小難しいことを語らずとも、やはりスッキリする非常に面白い作品になっており、アラジン、ジーニー、ジャスミンを応援したくなる。
そんな純エンタメ度の高い作品とも言える「アラジン」
やはり今作も「黄金期」に相応しい作品だと、改めて思い知らされた。
まとめ
- アラジンの悩みは「見た目より中身」という点に通ずる。
- 「王様の剣」「コルドロン」での反省を活かす作品。
ということで、読了ありがとうございます!
次回は「ライオン・キング」について語っていきますよ!!