
今日は映画館で鑑賞した作品「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」をご紹介します。
色々、公開に際して問題のあった作品です・・・
記事を読むとわかること
- この物語が描きたかったもの。についての僕の考え。
- いろいろな映画を見る意味とは?
その僕なりの答え。
目次
「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」のついて
基本データ
- 公開 2019年(アメリカでは上映中止)(2020年 日本公開)
- 監督/脚本 ウディ・アレン
- 出演者 ティモシー・シャラメ/セレーナ・ゴメス/エル・ファニング/ジュード・ロウ ほか
あらすじ
大学生のカップル、ギャツビー(ティモシー・シャラメ)とアシュレー(エル・ファニング)は、ニューヨークでロマンチックな週末を過ごそうとしていた。
きっかけは、アシュレーが学校の課題で有名な映画監督ポラード(リーヴ・シュレイバー)にマンハッタンでインタビューをすることになったこと。
生粋のニューヨーカーのギャツビーは、アリゾナ生まれのアシュレーに街を案内したくてたまらない。
ギャツビーは自分好みのデートプランを詰め込むが、2人の計画は晴れた日の夕立のように瞬く間に狂い始め、思いもしなかった出来事が次々と起こるのだった……。
公式サイトより抜粋
今作を語る上で、触れないわけにはいけない事件

アメリカ公開中止
今作品はアメリカで公開中止となった作品だ。
以下は当該記事をウィキペディアより引用だ。
2017年、映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインが数々のハリウッド女優にセクシャルハラスメント行為や性的暴行を加えていたことが数人の女優から告発されたことにより、#MeToo運動などの女性の権利向上の運動がインターネットなどのメディア上で巻き起こり、ハリウッドの男性たちの女性に対するセクハラ行為や性的暴行が次々と告発された。
本作監督のアレンは、1992年に、当時交際していた女優のミア・ファローの養女に性的虐待を行った容疑でファローから訴えられ、警察の捜査の結果、証拠不十分で不起訴となっていたが、この件が再び問題となった。
2017年10月、グリフィン・ニューマンがTwitterを通して、本作に出演したことを後悔し、今後一切アレンと仕事をしないとの声明を発表した。
ニューマンは本作のギャラ全額をRAINNに寄付した。
2018年1月、レベッカ・ホールはInstagramを通して、ニューマンと同様に、本作への出演の後悔と今後一切のアレンとの仕事を拒否する声明を発表した。
ホールは本作のギャラ全額をTime's Up基金に寄付した。
同月、ティモシー・シャラメはInstagramで、アレンへの批判は避けたものの、本作への出演で報酬を得ることを望まない意向を発表し、本作のギャラ全額をTime's Up基金、RAINN, ニューヨークのLGBTセンターに寄付した。
のちにセレーナ・ゴメスは、本作での出演料を100万ドルほど上回る額をTime's Up基金に寄付した。
2018年3月、エル・ファニングも本作への出演を後悔する声明を発表した。
ファニングの出演料は具体的に明らかにはなっていないが、Time's Up基金に寄付をしたことを明らかにした。
Wikipediaより抜粋
このようにキャストが本作に出演したことを後悔。
ギャラを全額関係機関に寄付するという事態となり、アメリカ公開を見送るという結果になった。
なので、本作はアメリカでは未だに公開されていない。
もちろん、作品と監督の起こした(疑惑ではあるが)ことは「別」として考えなければならないので、作品は作品として評価する。
だが、やはり今作品の裏側にはこのような事件があったことは、やはり知っておかなければならない。
ここからはネタバレを含みます。
あと今作が好きな方はゴメンなさいね・・・
個人的にはイマイチ「のれない」作品

「昔」の映画っぽい、けど小物や風景が「今」というバランスが面白い
ということで、見出しにも書いたんですけど。
結論としては「のれない」作品だったという印象が強いです。
もちろんね、これはあくまで「僕の意見です」
で、本作の僕がいいなと思った点をまず上げておくと「全てのシーンが絵画的」という点ですね。
雨のニューヨークにたたずむ「ティモシー・シャラメ」の絵としての美しさ。
これだけでも「眼福」というもの。
あと、特徴としては非常に「昔の映画」っぽいという印象も強く受けましたね。
作品の冒頭に監督や主要キャストのロールがあるって、これだけで「昔の映画っぽさ」が演出できている。
でも、出てくる街並みは「今」のニューヨークだし、iPhoneなんかで連絡を取り合っちゃうところ。
映画の雰囲気と出てくる風景、小物のアンバランス感、ここは非常に面白い点でしたね。
「勘違い」で進む物語
本作は「ギャツビー」と「アシュレー」のカップルが、ニューヨークですれ違う様子を、コメディとして描いている作品だと言える。
最初は「ニューヨークは魅惑の街だぜ」とニョーヨーカーのギャツビーは、アリゾナ生まれのアシュレーに「ニューヨーク紹介」をしたくてたまらない。
だだがアシュレイは映画監督「ポラード」へ取材をしていくにつれて、騒動に巻き込まれ。
成り行きでスーパスターの「新恋人か?」と噂されることになる。
ギャツビーは生まれ育ったニューヨーク、知り尽くした場所に恋人を奪われ、ショックを受けながら、街を放浪する様子が描かれる。
ギャツビーについて
ギャツビーはそもそも、お金持ちのボンボンだ。
勝ち組人生でありながら、それに満足できない。
人生に明確な目標もない。
そのため賭け事に興じるも、それにも勝つ、おまけに彼女も美人だ。
そんな彼が初めて味わう孤独。
その孤独な放浪も果てに、彼は母親の秘密にせまる。
今まで「成功のレール」を歩ませる、そのために課せられたと思っていた母親からの期待。
それにずっと反感を覚えて生きてきた。
だが、彼の生き方は、そんな母親からの金銭援助があったからこそできるものなのだ。
それをチャンに指摘されてシュンと落ち込むシーンもありましたが。
どうしてこんなにも「決められごとに反感してしまうのか?」
それはある意味で血は争えないということなのか、その真相を知り彼はある決断をする。
彼は「こんな浮ついた生き方はアカン」ということに気づき、ある決断をする。
アシュレー
アシュレーは、才色兼備で学内新聞の記事のために、映画界の内側に潜入する。
ある意味で「評価」されたいという目標のある人物だ。
ギャツビーと違い「しっかり」と明確な目標を持ち、生きている。
そんな彼女の周りで巻き起こる騒動はコメディチックに描かれる。
彼女は生粋の魅力で「華やかな世界」を蝶のように渡り歩く。
そして、世界のスーパースターに抱かれかけた時、「断れば、末代までの恥」と決意するが「幸か不幸か」未遂に終わり「いかん、いかん」と我に返る。
ある意味で彼女は「浮ついた方向」にいつでも傾倒するかも知れない、というのがここでは描かれている。
真逆になる2人
ある意味で一晩の不思議な出来事は、2人を「真逆」な人生を歩ませることになる。
だからこそ、この2人はこの後うまくはいかないのでは?
と考えずにはいられない。
だからこそ、ギャッビーは最後に彼女と別れ、新しい人生を選ぶ。
アシュレーはキラキラした太陽の下。(=映画の世界、きらびやかな世界)
ギャツビーは薄曇りの下。(それを諦めた世界、現実)
今作は、生きている世界の違い。
そこを、乗り越えるのではなく、受け入れろ。
そういうメッセージの込められた映画だと僕は思った。
どうしても気になる事件のこと/そもそも論
今作品でアシュレーはとにかく「おじさん」に求愛される。
なんとなく、現実にあった事件のことが頭をよぎらずにはいられない。
映画は「その人を表現する」もの。
だとするなら、この節々の女性への男性キャラの接し方は、彼の価値観なのかも知れない。
切り離そうにも、どうしても気になる方も多かったのではないか?
あとこれは仕方ないことだが、僕はこういう話が「好きじゃない」のかも笑
最後の決断も、「生きている世界の違い」それは「乗り越える」ではなく「受け入れる」
という風に僕は思ったんですけど、アシュレイはギャツビーのもとに戻ってきたわけですよ。
100歩譲ってフるのはいい。
でもすぐ、チャンとひっつくっていう結末はどうなんですか?笑
まずは1人でギャツビーは人生を歩むこと、それが大切だと思うんですけどねぇ。
まぁこれは「好み」です笑
今作を振り返って
ざっくり一言解説
これでいいのか!? 「僕はいやだ」笑
まぁ「好み」ではない映画でした
まとめ
「好み」じゃない。
だけどそういう映画を見たということは「人生でプラス」になる。
「自分がは、こういうものが”嫌い”と知ることができるからだ」
それはある意味で重要な体験だ。
自分が「好き」なこと。
それを知ることと同様に「嫌い」なことを知る。
それは人生において尊い経験だ。
もちろん今作を「好き」な人と言い争うつもりも毛頭ない。
人には人の「好き/嫌い」がある。
そういう意味でも、映画をいろいろ見るのは「人生においてプラス」をもたらすのだ。
好きそうな作品ばかり見ていては、そういう体験はできない・・・。
というわけで、また次回の記事でお会いしましょう。