
今日は、PIXAR作品を公開順に鑑賞して評論をしていく【PIXAR総チェック】
ということで、今回はPIXARの2作品目の『バグズ・ライフ』を評論していきたいと思います。
この作品のポイント
- アリとキリギリスからの派生作品
- ダメダメなやつらの「ワンス・アゲイン」
- PIXAR VS ドリーム・ワークス 全面戦争!!
目次
基本データ
基本データ
- 公開 1998年
- 監督 ジョン・ラセター/アンドリュー・スタントン
- 脚本 アンドリュー・スタントン/ドナルド・マッケネリー/ボブ・ショウ
- 声の出演 デイヴ・フォーリー/ケヴィン・スペイシー ほか
あらすじ
小さな虫の世界で巻き起こる葉っぱの下での大冒険の物語。
アリたちの国をおびやかすバッタのホッパーたちから仲間を守るために、1匹の小さなアリ、フリックが“助っ人”を探す壮大な旅に出る。
しかし、フリックが連れ帰ったのは、なんとサーカスの団員だった…。
ホッパーたちを撃退するには仲間たちと一致団結し、知恵を絞って戦うしかない!
ディズニープラスより引用
「ディズニー」の歴史と通ずる「PIXAR」の進化

技術の進歩が目覚ましい!
今作の内容を云々するより、やはり「PIXAR」の初期作品は、「技術の進歩」という点から語らねばならない。
今作の準備は、『トイ・ストーリー』公開前にすでに準備期間に突入していた。
『トイ・ストーリー』公開に向けてのゴタゴタがある中、同時に企画を進めていたこともあり、「PIXAR」は会社総出で製作にあたっていたのだ。
さて、そんな中で公開された『バグズ・ライフ』
題材は「虫」だが、これには理由がある。
それは「虫」の質感ならばCGアニメーションで表現できるという算段があったからだ。
しかし、今作の虫、特にアリは6本足ではない。
言うなれば「ディズニー的デフォルメ」という手法「二足歩行」「二本の腕」をしているのだ。
先程も言ったように「虫」の表現ならCGで可能だという算段はあったが、それをストレートに描くと、「拒否感」を観客に示す恐れがある。
なんとか「親近感」を持ってもらおうと言う判断があってのことだ。
逆にヴィランとなる「キリギリス」は6本の足に2本の「人間的腕」を追加しており、あえて「拒否感」をいだきやすいデザインをしているのも特徴だと言える。
このように、CG技術がまだ「黎明期」
だからこそ、選んだ「虫」という題材。
そして、それを選んだからこそ起きる恐れのある「リスク」を先に剥ぎ取るキャラクターデザイン。
実は計算され尽くされた「題材」「調理方法」といえるのだ。
さて、そんな「アリ」をモチーフにしているからこそ、今作はどうしても「逃げられない」ことがある。
それは「アリ」が群れで生きる生き物だということだ。
簡単にいうと、画面に描くべき情報量(キャラクター総数)が『トイ・ストーリー』以上に多いということだ。
例えばラストシーンのホッパーと対峙するあアリの群れ。
総数800匹以上のアリが登場するが、このシーンで少しも動かないアリがいたり、同じ動きをさせては「アニメ的な魔法」が解けてしまう。
当時でも、ただ大群を制御することは技術的には可能だったが、「PIXAR」はこの点をブレイクスルーする。
それは、ソフトフェアによりプログラミングされた「自立式」という範疇を超えるということだ。
例えば同様の技術を用いて1994年の『ライオン・キング』の「ヌー」の大移動などの描写は出来ていたが、それはあくまで「群れ」として動く「動物」を表現していただけだ。
つまりプログラミングされた存在を自立式に動かしているに過ぎないのだ。
「PIXAR」はその集団に「感情」を与える能力を与えた。
これによって「大群」にそれぞれ個別の「意志」を与えることに成功したのだ。
深堀りポイント
「アニメ」とは「アニマ=ラテン語で”生命”」という語源をもつ。
CGキャラクターに「命」を与えるということ、それは「アニメ」の本質だといえるのだ。
ちなみに、「限られた存在」から「大群を描くという挑戦」
これはディズニーの『白雪姫』から『ピノキオ』でも見られた傾向でもある。
限られた登場人物の織りなす『白雪姫』に対して、『ピノキオ』はサーカスのシーンや町の全景で「モブキャラ」が非常に多く登場していた。
こうして「少数」から「大勢」を描く事により「アニメ」も「CGアニメ」も発展していったのだ。
こうして、作品を重ねるごとに「技術革新」をしていく「PIXAR」
彼らの作品もどんどん「スケール」が大きくなり、進化していく。
「アリとキリギリス」の進化を目指して

ダメダメな奴らの「ワンス・アゲイン」
今作は最初にも述べたが「技術」として「虫」ならば、表現の範疇に届くという算段で「モチーフ」に選ばれている。
そこで制作陣はイソップ童話の「アリとキリギリス」に目をつけた。
しかしすでに、1934年に「ディズニー」が短編として、しかも非常に「ディズニーらしい」アレンジをした作品を制作していたのだ。
基本ストーリーは原作通り。
せっせと働くアリと、遊び歩いていたキリギリス。
冬が来て、餌がなく餓死しそうなキリギリスがアリのもとに「餌をください」とやってくる。(原作では見捨てる)
ディズニー版は最後にキリギリスが「バイオリン弾き」として食い扶持を手に入れさせる、女王アリの寛大さが描かれる。
しかし制作陣はこのことに疑問を抱いたのだ。
「キリギリス」と「アリ」の体格差を考えても、餌を本来奪うんじゃないか?と。
今作の源流はそんな「童話」への「疑問」から生まれている。
そのため今作のアリたちは、キリギリスに力で支配されて、奴隷のような生活を余儀なくされていた。
そのアリたちのコミュニティーにおいて主人公の「フリック」はトラブルメーカーで、仲間からも厄介者扱いされている。
そんなフリックは何とか、「みんなの役に立ちたい」という、「認められたい」という欲求を抱えていた。
しかし、ドジを踏み、キリギリスへの貢物を全て台無しにして、彼らの怒りを買う。
そして、ついには半ば追放という形で、「助っ人探しの旅」に出ることになる。
そこで出会ったのが「サーカス団」の昆虫たちだ。
彼らも彼らで「ダメダメ」な演技しか出来ず、サーカスとしては目も当てられない存在なのだ。
そんな彼らをキリギリスと戦う助っ人として、フリックは故郷に連れ帰るのだ。
フリックとサーカス団の連中はある種似た者同士だ。
フリックは前述した通り「仲間から厄介者扱い」されている。
サーカス団も、全く自分たちの演技を受け入れられず、社会の中ではいわゆる「負け犬」という地位に甘んじている。
彼らはそんな自分たちも「認められたい」と願っているのだ。
だからこそ、サーカス団は最初はキリギリスと戦うことを拒むが、自分たちを「戦士として認めてくれる」アリたちの存在のために戦う決意を固めることになる。
ある種彼らは「認められたい」という欲求が満たされるという形で、キリギリスと戦うことになるのだ。
それは、ある種の「負け犬」たちの「再起」を描いているともいえるのだ。
そして、それはこの作品の「アリ社会」にも言える。
今作は終盤まで、どちらかといえばフリックは「ダメ」という烙印を押され、その他の「アリ」こそが「優秀」であるというふうに描かれる。
確かに「社会」を「安全」に運用するという意味で、キリギリスに逆らわないのも、理解は出来る。
でも、それでは「ただの奴隷」なのだ。
反抗することも忘れ、歯牙を抜かれたアリたち。
そこには「意地」もなければ「誇り」もないのだ。
彼らは、フリックを馬鹿にはするが、でもこのアリたちもまた、現状を変えようとしない「愚か者」だということだ。
そんなアリたちも、最終的には「奴隷」ではいけないという決意のもと立ち上がり、キリギリスに反撃するというクライマックスが、今作には用意されている。
この作品は、確かに表面上は「フリック」「サーカス団」が再起する話だといえるのだが、実はこの作品に登場する「全てのアリ」たちもまた「再起」する物語だと言えるのだ。
これはある種、前作のラストとも通ずる。
シドという「おもちゃ」を傷つける暴君に対して、ウッディたちは「おもちゃ」であるという領分を超えて反撃をした。
これはある意味で、「屈しない」という強い意思表示だとも言えるのだ。
二作連続で、ある種「屈しない」という強い意思表明をした「PIXAR」
なぜ、彼らはそのようなメッセージを「作品」に込めたのか?
それは歴史を見れば紐解く事で理解できるので、そこを見ていこう。
VSドリーム・ワークス
「PIXAR」の責任者である「スティーブ・ジョブズ」
彼の交渉力で、「PIXAR」という小さなアニメーション会社は、「ディズニー」という巨大な組織と対等以上に渡り合うことができていた。
しかし、「ディズニー」「PIXAR」連合の前に強敵が出現する。
それが「ジェフェリー・カッツェンバーグ」率いる「ドリーム・ワークス」だ。
かつて「ディズニー」に在籍し、「黄金期」を作るのに尽力したカッツェンバーグ、しかし後にアイズナーと対立。
ディズニーを追われる身となったのだ。
そんな彼が攻撃目標としたのが「PIXAR」であり『バグズ・ライフ』だったのだ。
しかし元々カッツェンバーグがいなければ「PIXAR」は「ディズニー」と関係を作ること、そもそも「トイ・ストーリー」公開をすることは、到底不可能だった。
誰もが「CGアニメ」に懐疑的だったが、カッツェンバーグは、その将来性を見抜いており、彼らとともに「CAPS」を開発するなど手を差し伸べたのだ。
そういう経緯もあり、ジョン・ラセターはカッツェンバーグを非常に信頼していた。
そのためラセターは彼がディズニーを去ったあとも、彼と何度も顔を合わせており、『バグズ・ライフ』についての相談をしていたのだ。
それが、仇となった・・・。
今にして思えば、カッツェンバーグは『バグズ・ライフ』の公開時期がいつになるのか?
ということを中心に聞きたがっていた。
メイキング・オブ・ピクサー より引用
ある日「ドリーム・ワークス」は『アンツ』という「PIXAR」と同じ「アリ映画」
それも「CGアニメ」として公開するという計画が業界紙にて出回ったのだ。
これを見たラセターは「よくも、そんなことを・・・」と怒りの電話をカッツェンバーグにかけた。
しかし、ここでラセターは気づいたのだ、「PIXAR」はあくまで彼の個人的な「ディズニー」への復讐心の巻き添えを食らっただけだと。
そして『アンツ』は『バグズ・ライフ』よりも2ヶ月早く公開されるということも、業界紙面を賑わせた。
彼らはある種「クオリティ度外視」し「PIXARより早く公開する」という目標のもと動いていた。
それは『バグズ・ライフ』への明確な妨害工作だったのだ。
さらにラセター、ジョブズに「ドリーム・ワークス」は「『バグズ・ライフ』の公開日を変更するようにディズニーと交渉せよ」
「成功すれば『アンツ』の製作を中止しよう」という電話がかかってきたが、2人は電話を叩き切った。
ついに「PIXAR」VS「ドリーム・ワークス」の全面戦争が勃発するのだ。
2社のスタンス
- クオリティ度外視で、とにかう「ディズニー」に打撃を与えたい「ドリーム・ワークス」
- あくまで「クオリティ」を重視し、作品の質で勝負にこだわった「PIXAR」
両社の応酬を一部抜粋して紹介しておこう。
スティーブ・ジョブズ:黙っているのが得策としながらも「悪者がかった試しがない」「アイデアを盗んだ模造品」
ジョン・ラセター:「アイデアを盗んだ」「低俗版」
ドリーム・ワークス:「彼らは薬を飲んだほうがいい(ジョブズの発言を受けて)」
戦争の結果・・・
そんな全面戦争だったが、ここで両作の特徴と、結果を先に紹介しておこう。
『アンツ』 | 『バグズ・ライフ』 | |
ギャグ | 言葉で笑わせる | キャラの動きで笑わせる |
脚本 | 大人向け | 子供向け |
キャスト | ハリウッドスターをふんだんに起用 | ほとんどスターの起用なし |
結果 | 惨敗 |
圧勝 |
この結果、ラセターは自身の正しさを証明したのだ。
『PIXAR』が娯楽作品に全力投球すれば、勝利できるということを。
そして、ただ自分たちを妨害するための「映画」には負けないということを。
しかし、この「戦争」でラセターは一つの教訓を得た、それは「映画の内容」を表には出さないということだ・・・。
こうして、「ディズニー・PIXAR」と「ドリーム・ワークス」の「アニメ戦争」第一幕は幕を下ろすことになる。
このような裏側の事象をみれば、『バグズ・ライフ』の展開は容易に説明がつく。
それは、どんな「妨害」「強敵」が現れようとも、「屈しない」ということだ。
追記
もう一つ「屈しない」という要素に関して言うと、「ディズニー」「PIXAR」の力関係は、
完全に「キリギリス=ディズニー」「アリ=PIXAR」という関係になっている。
これも、見逃せない点だ。
カッツェンバーグ、スピルバーグが率いる「ドリーム・ワークス」という強力な相手が現れようとも、譲歩することなく、真正面からぶつかることで勝利する。
この「PIXAR」の姿勢が、実は『バグズ・ライフ』の結末とも大きく関係するのだ。
そういう事情をしると、この映画は非常に味わい深う思えるのではないだろうか??
今作を振り返って
ざっくり一言解説
アリさん舐めたらいかんぜよ!!
作品内容もさることながら、裏側も面白いのが『バグズ・ライフ』
まとめ
今作は、周囲に認められたいという「フリック」やサーカス団の虫たちが、認められる物語だと言える。
しかし、同時にフリックを「下に見ていた」「アリ社会」全体もまた、自尊心を失っており、実は彼らが見下していた存在が奮起することで、アリ社会全体が「勇気をもって立ち上がる」話になっている。
「キリギリスはアリがいないといけない」
「でもアリは、キリギリスなんていらないんだ」
という叫びは、まさに「奴隷制度」との決別を意味する言葉だとも言える。
現実の歴史を見てもそうだ、「奴隷」は「上級国民」にとっては必要だった。
でも「奴隷」にとって逆はない。
この作品はそんな「搾取される側」が勇気を持って立ち上がることの素晴らしさを描いている。
そして、今ある「決まりごと」「ルール」への疑問を持つべきだという警告でもあるのだ。
「今を変えるのに必要なのは、少しの勇気なのだ」
そのことを今作は力強く描いている。
そして製作の裏側で起きた「全面戦争」
どんな強敵が現れても屈しないという、「PIXAR」の強い意志も、この作品には反映されているのだ。
こうして1990年代後半から、2000年代にかけて、「アニメ業界」は「戦国時代」に突入していくことになる。
まとめ
- ダメ男が立ち上がることで、社会が変わる。
- 「勇気」を持って立ち上がることの素晴らしさを描く作品。
- 全面戦争に「PIXAR」は勝利をおさめる!!